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執筆者の写真中西れいこ

自分とつながりすぎている

自分とのつながりを取り戻す…というワードをよくみかけます。

確かに大切なこと…と思います。人は「社会がおしつけてくる役割/価値観」を生きるのではなく、自分自身の内なる声に従うことが、とても大切です。


ですが、今日はあえて「自分とつながりすぎていると、自分がわからなくなる」とも言いたいです。それは、こんな会話がきっかけで思いました。


「自分の感じたことを素直に表現できない」「言葉にするのが上手くない」


私は比較的、自分で感じたことをすぐに言語化できます。それを言うと「あなたは言葉を沢山知っているから」とも言われます。でも私は帰国子女ですし、日本語に長けているとも思いません。いまで「あれってなんていうんだろう」と国語辞典をいたり、人に質問します。「言葉にするのが上手くない」と言っている人の語彙と、私の語彙、その多さに大きな違いはないです。


ですから語彙の多さが問題ではない…としたら…。


それは「客観性」ではないかと思いました。私は「自分が感じたことを言葉にする」とき、自分を俯瞰している自分がいます。「こいつ(私)はこんなこと考えてる。感じてる」という分離感覚。少し離れたところから、自分を眺めるような感覚です。この「自分を眺めているもう一人の存在」を専門用語で「マインド」と言います。


このマインドが成長すると、俯瞰的に自分を眺める感覚が発達します。そして最終的に自分だけではなく、周りの世界とも自分を切り離し、外の現象を客観的に見る中庸性が育ちます。


このマインドの成長には、小説などの読書、また書くことは役に立ちます。特に「心にあること」を表現している小説は、客観視の感覚を育てます。私は幼少期から小説が大好きでした。文学という文化が人類に根付いているのは、霊的成長に欠かせないツールだからでしょう。




そして「感じていることを表現できない」という方を観察していると、自分を自分から切り離すのに時間がかかったり、自分の内側のエネルギーにどっぷり浸かっているのを感じます。浸っているエナジーは、確かに自分のエネルギーで、それは大切なもので、つながることが必要なんだけど…


浸かりすぎていると、浸かっているエナジーと一体化して、本来の自分が分からなくなることが起きます。客観視するには「スペース」が必要です。エナジーワークで育ててほしい感覚は、身体の内にも、心にも「スペース」をつくることです。自分のエナジーにどっぷり浸ることではありません。


時には自分から離れることも大切。離れて、戻って、離れて…分離と一体化の繰り返しは最終的な統合に至るまでに、必然的に起きてくるエネルギーの法則です。


エネルギーには分離がなく、ワンネス一体化や統合だけが大切…と考えるスピリチャルな傾向は、分離の必要性を否定します。確かにエネルギーは究極は一つではありますが、物質(肉体)を生きる限りは分離は現実です。分離など幻想…と思いすぎると、むしろ成長が止まると思います。螺旋のように、一体化と分離を繰り返してこそ、真の統合に歩いていけるのです。


自分に起きていることを、俯瞰的に、客観的に観察して言語化することで起きることは、「そんなふうに感じる自分を赦し、受け入れることです」誰が何を言おうと「私はこう感じている」と表現できることは、その人の意志を育てます。その意志は創造には欠かせないエネルギーです。


自分のエネルギーにどっぷりと浸かって一体化している人は、自分を赦して受け入れ、意志を育てる訓練をするチャンスを逃しているとも言えるでしょう。一言でも感じたことを言葉にすることで、自分を受けいれ、自分を癒せますように。


自分の感じていることを、言葉にすると、自分の内からエネルギーが解放されます。それもまた、エナジーワークです。














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